プレテスト「世界史」解説動画 書きおこし

プレテスト「世界史」

解説動画 書きおこし

こちらはプレテスト「世界史」解説記事の、補足動画で説明している内容を書きおこしたものです。

実際の解説記事は、こちらをご覧ください。

 

共通テスト世界史対策「プレテスト世界史」くわしい分析と解説


第3問①

それでは、第3問、問1についてみていきます。

問題の要旨は、絶対王政期のヨーロッパの国々の中で、東アジアに影響力をもっていた国が、どのように変わっていったか・・・

それはイコールで、どの国の国力が充実していたか?ということになります。

 

では、みていきましょう。

今、話したような内容は日本の歴史の中に、はっきり表れています。

今回の2番目にあげた動画の内容と少しかぶりますが、16世紀(1500年代)を中心に、みていきます。

 

1600年以降が、江戸時代。正確には1603年に江戸幕府は始まりますが、だいたい1600年と考えてよいです。

その前の40年くらいが、信長・秀吉の活躍した安土・桃山時代。その前が、戦国時代です。

戦国時代は、100年ちょっと続きます。

 

まず、ヨーロッパの国々の中で力をつけてきたのは、スペインとポルトガル。

これらの国は、大航海時代の中心であり、戦国日本に鉄砲やキリスト教をもたらしました。

 

続いて力をつけてきたのが、オランダ、そしてイギリスです。

江戸幕府を創始した、徳川家康が、オランダ人やイギリス人を外交顧問として雇っていた、という話もあります。

 

オランダとイギリスは、アジア進出で争いましたが、どっちが勝ったかというと・・・わかりますよね。・・・オランダです。

それは、日本の歴史に表れています。

鎖国体制をしいた日本で、唯一日本と貿易したヨーロッパの国は、オランダでした。

ヨーロッパの国の中で、オランダが日本との貿易を独占したといえます。

 

実際、1623年にアンボイナ事件がありました。アンボイナ島は東南アジアにあった島です。

そこにあったイギリス商館の商館員全員を、オランダが虐殺し、イギリス勢力を東南アジアから追い払った、という事件です。

 

日本は戦国の世が終わり、多数の浪人(使えるところがなくなったさむらい)がいましたので、そういう人らが、こういう戦いにしていた、なんていうはなしもあります。

 

とこかく、これでイギリス勢力は東南アジアから西に追い返されました。イギリスはその後、インド方面の進出に集中することになるので、結果的にはそれがよかったという面もありますね。

 

で、今回、なぜこの話を紹介したかというと・・・

プレテスト世界史、第3問、問1・・・その後は、海外での勢力が一番強いのはイギリス、という時代が長かったので、選択肢の③をまちがって選んでしまった人も多いと思います。

 

しかし、改めて、これは1500年代の話です。

スペイン、ポルトガルに遅れて出てきて、さらに1600年頃オランダに追い返されたイギリスが、東アジア、中国地域で貿易において強い勢力をもっていた、なんてことはあり得ませんよね。

・・・ということで選択肢③を消すことができます。

 

 年号をすべて正確にして、それで判断するというのは、無理のある話ですが、このように大まかに、そして他地域(この場合は日本)の歴史と組み合わせて考えられれば、このように自信を、もって正しく判断できます。

 

 どうですか?共通テストの世界史って、けっこう頭使いますよ。

でも、ひたすら覚えなければいけない、と考えるよりも、よっぽど楽しいですよね。

しかも、残酷な言い方をすれば、ひたすら暗記しようとしても、あまり点数は上がりませんよ。

考えて(頭を使って)、ふだんから勉強しましょう。そうすれば、テストのときもしっかり考えられます。

 

でも、それができるようになりさえすれば、得点が安定するということです。

楽しんで、いきましょうね。

第3問②

では、第3問Bについて、補足していきます。

古代ユーラシアの概略について、みていきましょう。

 

すでに何度かみてきましたが、紀元から400年までの400年間のタームが、ユーラシア大陸の西でローマ帝国が栄えていたタームです。

 

また、ユーラシア大陸の東では、紀元前後の200年ずつ、前漢から後漢に代わりますが、紀元前200年から紀元後の200年までの400年間が、漢という大帝国が栄えていた時期です。

 

東西に安定した大きな帝国があったので、その間にシルクロードという交通路が発達しました。

 

では、このローマ帝国と漢帝国の間・・・2つの帝国の間の地域はどうなっていたか?・・・西アジアの地域にあたりますが、そこがどうなっていたのかというと・・・パルティアという王朝がありました。遊牧系イラン人による王朝です。

 

このパルティアという王朝は、けっこう大きく、存在年代も漢とほぼ同じ時期・・・ローマと漢の間の地域は、パルティアが支配していたと考えていいです。

 

私は実は大学のとき考古学を専攻していたのですが・・・考古学といっても日本のではなく・・・まぁ、わかりやすくいうとシルクロードのあたりの研究ですけどね、ちょうど、今ここで問題にしているあたりです・・・

 

 そのとき、基本研究書の1つとして勉強したのがフランス人の学者の研究所で、タイトルが「2つの帝国の間の・・・」・・・正確なタイトルは、忘れてしまいましたが、そのようなタイトルでした。

 

 それは、主にパルティアについてのものでした。ローマと漢の間で「2つの帝国の間の・・・」ということだったのでしょうが、それに私はもう1つの要素・・・

 

横だけでなく縦でも、アケメネス朝とササン朝の間ですからね・・・その意味でもパルティアは、2つの帝国の間の国だな、と解釈していました。

 

性格には、アケメネス朝とパルティアの間には、アレクサンドロス大王の大帝国があります。

 

ササン朝は存続したのが400年ちょっと・・・パルティアも200年よりのうすこしのびていたので、さすがにぴったり400年ずつとはいかず、ササン朝は650年くらいまで続きます。

そして、この後はイスラーム勢力が出てくるので、これで1くぎりです。

 

このようにパルティアを中心に、地理的にはローマと漢の間、時代的にはアケメネス朝とササン朝の間ということを・・・まず、おさえられれば、頭の中がぐっと整理しやすくなります。

 

例えば、中国では間の後、三国時代から始まる魏晋南北朝時代になります。大きな統一王朝が出てこなかった時代なので、分裂期とおさえてよいでしょう。

 

この分裂期もだいたい400年弱で、ササン朝と中国の分裂期が同時期といえます。

ついでにいうと、西アジアはこれ以降イスラームの勢力が出てきて、中国は隋についで唐が出てきて、大帝国を気付きます。イスラームが出てきたのと、唐が同時期とおさえられますね。

 

また、インド地域でいうと、・・・西アジアと中国の間にあり、大きな王朝といえば・・・

 

クシャーナ朝がパルティアや漢と同時期・・・クシャーナ朝のもと、ギリシア文化の影響を受けたガンダーラの仏教美術が花開きました。ガンダーラ美術は、以前この地域にあったギリシア人の王国 バクトリアからヘレニズムの表現技法が受け継がれていたことが背景にある、とされていますが、クシャーナ朝は交通の要衝にあったので、もっと直にローマの文明の影響を受けていた、と考えてもいいかもしれませんね。

 

そして、次のグプタ朝が、ササン朝や中国の分裂期と同時期です。

どうでしょう?だいぶ、整理できたのでは?と思います。

世界史は、こんな感じで勉強していきましょう。

大問4①

では、プレテスト世界史第4問A問題に関連して、・・・よい機会なので

近代ヨーロッパの諸国家の展開について、同時代の皇帝や国王を中心にまとめていきましょう。

 

 18世紀(1700年代)を中心にみていきます。・・・どういう時代だったかというと、

・・・18世紀末には、フランス革命がありました。

 

また、フランス革命と同時期に、ほぼポーランドの分割がありました。

ポーランド分割が意味する1つの側面としては・・・オーストリア、プロイセン、あるいはロシアなど・・・新しく力をつけてきた国が出てきた・・・ということです。

 

実際、この3国を中心にポーランド分割が行われます。

 

ポーランド分割は、プロイセンのフリードリヒ2世が、オーストリアの女帝マリア=テレジアを誘うことからはじまります。両国はシュレジエンをめぐり、オーストリア継承戦争や七年戦争などの戦争で争いましたが、ポーランドについては利害が一致したのでしょう。

 

プロイセンとオーストリアは、ロシアにもポーランドの分割を提案します。そのときのロシアの皇帝は女帝のエカチェリーナ2世。この後、ポーランド分割は第2回、第3回、と続きますが、3回にわたるポーランド分割の中心人物は、このエカチェリーナ2世といって、いいでしょう。

 

問題にもどって、与えられた絵をみてみましょう。

オーストリアは、すでに与えられていて男性の絵になっています。

これは、マリア=テレジアの長男ヨーゼフ2世です。母のマリア=テレジアと、共同統治・・・2人の皇帝がいる体制ですね・・・になっていました。

 

ポーランド分割は、プロイセン、ロシア、オーストラリアの3国で行われたので、残りがプロイセンとロシアです。あ が、女性なので、ロシアのエカチェリーナ2世、い が男性なのでプロイセンのフリードリヒ2世ということでいいでしょう。これで、問2⑴は、解答できます。

選択肢①か⑤の両方ともが、正解です。⑵に合わせて、好きな方を選びましょう。

ついでなので、他の選択肢も検討しておきましょう。

選択肢②のエリザベス1世は、イギリスのテューダー朝の最後の国王・・・16世紀後半、在位年は1600年をちょっとすぎる(1603年)までの、国王です。

 

イギリス絶対王政の全盛期の国王で、これまた絶対王政の全盛期だった、スペインのフェリペ2世とだいたい同時期で、この二人も、激しく争いました。

 

イギリスは17世紀には、ステュアート朝の時代になり、この王朝のとき、・・・だから17世紀に、と言っていいですね・・・ピューリタン革命や名誉革命が起こり、18世紀以降、イギリスは世界に先駆けて、議会政治が成長していきます。

 

選択肢③、ルイ14世は・・・18世紀後半がフランス革命なのでルイ16世の治下ですよね・・・それより前のはずなので、17世紀後半から18世紀初頭にかけてのフランスの国王です。フランスの絶対王政全盛期の国王です。

 

他の選択肢は、これより後、19世紀以降に出てくる国王です。

 

⑵の選択肢の方も、少し確認しておきましょう。問題の解説の方は、解説記事を参照してください。

 

選択肢d:ペテルブルクを築いて首都とし、ロシアが強国となる礎をつくったのは、ピョートル1世(大帝)でした。彼が活躍していたのは、フランスのルイ14世とだいたい同じ時期と考えてよいです。

 

選択肢e:イギリスのテューダー朝がはじまったのは、15世紀後半、ヘンリ7世のときです。主な国王としては、首長法を出し、イギリス国教会を成立させたヘンリ8世などがいて、エリザベス1世がテューダー朝最後の国王です。

 

ついでに補足しておきますと、フランスのブルボン朝がはじまったのが16世紀終わりのアンリ4世のとき・・・アンリ4世のあと、ルイ13世の治世があり、ルイ14世につづきます。

大問4②

それでは、基本事項の確認ということで、綿と絹についてみていきましょう。

 

綿は、肌触りがよく吸湿性がよい素材で、下着などに使われています。今、みなさんが身に付けている下着も、おそらく綿製でしょう。

 

絹は、すべすべした肌触りの素材で、着物(和服ですね)や、ネクタイなどに使われている素材を思い浮かべればよいです。

 

綿の原料が綿花・・・これは、畑で栽培されます。

絹の原料は、生糸・・・生糸は、かいこが(虫のガです)の糸のことです。

 

それで、綿製品や、絹製品をつくる過程で、「綿織物工業」「絹織物工業」・・・といった、名前が出てきます。

 

実際には、織物工業といえば、それぞれ原料から「糸」をつくる過程と、その糸から「布」をつくる過程をふくんでいますが、高校までの歴史分野では、伝統的に、それぞれこの「布」をつくる過程に、綿織物工業、絹織物工業、という名前を当てるようになっていますね。これは、わかりやすくするためです。

 

糸をつくる過程の工業は、綿の場合は紡績業、・・・できるのは綿糸ですね、

絹の場合は、製糸業、・・・できるのは絹糸です。これで、けんしと読みますよ。もっとも、きぬいとと読んでもいいですけどね。

 

 実は、紡績が綿糸、製糸が絹糸、とはっきり決まっているわけではなく、もともとはどちらもどちらの糸に使ってもよいものだったそうですが、こういう使い分けは自然と生まれるものです。

 

糸の生産と、布の生産の区別も大切ですね。イギリスの産業革命でも、綿織物工業で、紡績の機械が出てきてから、必要があって、織り機もいいものが出てきて・・・というような要素が強いです。

それで、今回のテーマですが・・・綿と絹とのちがいなんて、わかるよ・・・と、誰もが思っているでしょう。・・・でも、勉強するとき、本当にそれが意識できているでしょうか?

これらは、衣食住の「衣」です。人間は何かを着なければならないですからね。

思っているより、大事なテーマです。

 

例えばですが、中学の歴史の内容で、日本は江戸時代くらいまで、絹織物は多く中国から輸入していました。中国は、絹の最大の産地なので、それは、そうでしょうね。

 

では、綿はどうしていたか?というと・・・綿も江戸時代くらいには、日本でも当たり前になっていました・・・国内での生産もありましたが、綿糸、綿織物は中国からの他に、朝鮮から多く輸入していました。

 

また、江戸時代末の開国後、安い綿糸や綿織物が入ってきて、日本国内の綿織物工業、紡績業、さらには、もちろん綿花を育てる産業もあるのですが、これらは大打撃を受けました。(関税自主権がないですからね。関税とは、もともとそういうものです。政府が税収を得ることが主目的ではなく、輸入品を適正な価格にして、国内の産業を守るためのものです。)

 

絹の方をみますと、このカイコを育てて生糸を生産する産業のことを「養蚕業」というのですが、日本ではわりと養蚕業が進んでいて、生糸を多量に輸出することになりました。しかし、生産が追い付かず、絹織物などの品不足を引き起こしました。

 

今の話は、中学歴史の教科書にもある話ですし、世界史でも大切な話なのですが、どうでしょうか?このような、枠組みをしっかりつくっておくだけで、だいぶ頭に入りやすかったと思います。

 

改めてですが、今回のテーマ・・・綿織物や絹織物などの語句が出てきたとき、漠然と流すのではなく、綿は綿、絹は絹とはっきり意識しながら勉強を進めましょう。それだけで、かなり結果がちがってきます。

 

特に綿は、今の時代でもなくては困る必需品ですよね。

綿糸や綿織物を国内で生産できない国は、他国から輸入する必要があります。

ですから、歴史的にも大きな役割をはたしました。

 

原料の生産と、織物工業の関係を意識することも大切ですね。

 

綿花は植物なので、ある条件をもった地域で育ちやすいですし、生糸にしても、カイコガのエサになるのは桑の葉ですが、桑を育てられる気候の地域に養蚕業は成り立ちます。

 

古い時代にはもちろん、原料を生産できる地域に、糸にする産業や、布にする産業もあったのでしょうが、ヨーロッパではじまった産業革命によって、それも、ずれてきました。

 

イギリスによるインドの植民地支配なども、こういうところをもとに見直してみるとよいでしょう。

 

大問5では、また詳しくみていきます。